EU に加盟しながらもユーロを通貨単位としない国

svelandski2018-08-17

金 旧暦 7 月 7 日 先勝 辛巳 四緑木星 Verner Valter V33 25391 日目

EU はヨーロッパの経済のつながりを強くするためにできたのだと思ふので、通貨は本来ならば(加盟国である以上は)ユーロを使ふべきの様な気もするが、それぞれの国にはそれぞれの思惑があって、ユーロを採用しない国もある。イギリスをまだ加盟国であるとみなすと、加盟国が28か国あるうちで、ユーロを使はない国は9カ国ある。それをここに書いて見ると、イギリス、デンマークスウェーデンポーランドチェコハンガリールーマニアブルガリアクロアチアとなる。この様に見ると、イギリスを除けば北欧と東欧に偏ってゐる気がする。北欧でもフィンランドはユーロ圏である。ノルウエーは EU に加盟してゐない。ちょっと気になってネットで調べたので、備忘録として書いた。

秋の選挙

svelandski2018-08-16

木 旧暦 7 月 6 日 赤口 庚辰 五黄土星 Brynolf V33 25390 日目

9月9日は日本では重陽節句である。スウェーデンでは今年のこの日は選挙の日となる。僕ら外国人には国のレベルの選挙権はないが、県のレベルと市のレベルでの選挙権があり、今日、投票所入場券が送られて来た。世界的な傾向かもしれないが、スウェーデンでも右翼的な政党に勢ひがある様に見受けられる。右翼的と聞くと身構へてしまふが、移民、難民の受け入れの困難さを思へば、無理からぬ一面もある。生え抜きのスウェーデン人たちはまづ自分たちの社会保障や雇用確保を望む気持ちがある。また、ストックホルムでトラックが群衆に突っ込む事件も去年あったし、難民の受け入れに伴ふテロの増加を心配する心理もあるかしれない。現政権も移民者に対する受け入れ基準を厳格化してゐる。例へば、卑近な例では、日本人の女性と結婚したい若者がその相手にスウェーデンに移ってもらふのにさへ許可が下りない状況もある。もし、移民の数がごく少数なら人道主義的な考へで受け入れるべきであるが、大量になれば、自づと流れを阻止する動きが出て来る。簡単には答の出ない、しかし大事な問題であると思ふ。

73 年の実績

svelandski2018-08-15

水 旧暦 7 月 5 日 大安 己卯 六白金星 Stella Estelle V33 25389 日目

8 月 15 日水曜日。さういへば昭和 20 年の 8 月 15 日も水曜日であった。雲ひとつない空に真夏の太陽が降り注いだ日。その正午に、そのラジオ放送は全国に流された。戦後に生まれた僕らは、平和憲法に守られて、戦争に取られることもない幸せな時代を生きて来た。世界の各地で紛争が絶えない今の世に、日本は平和を守ることにかけては優等生であると思ふ人も多いのではないかと思ふ。だが、それは僕らが戦争よりこちら側しか見てないからその様に思ふのであって、近隣諸国からみれば、日本はかつてアジア各地に侵略した国であるといふ記憶が強く残ってゐる。満州に出て行くなど、今からみれば間違ってることでも、当時はみんなが正しいと信じた。みんなが正しいと言へば、そんな中で異を唱へることは難しい。状況は今も同じだと思ふ。日本が本当に平和を守る国であると認めてもらふためには、長い様に思はれるこの 73 年間の実績でもまだ短い。僕らはミサイルをぶっ放す国に対しても、東シナ海を蹂躙する国に対しても、諸国民の公正と信義に信頼する基本態度を固辞しなければならないと思ふ。忍耐のないところに平和はない。築かれた 73 年の実績を 100 年、200 年と伸ばしていってほしいと思ふ。

お盆の思ひ出

svelandski2018-08-14

火 旧暦 7 月 4 日 仏滅 戊寅 七赤金星 Uno V33 25388 日目

日本ではお盆である。子供の頃のお盆を思ひ出す。昼は暑いので夕方になってから親や祖母に連れられてお墓参りに行った。小さな町の中なので、家とお墓は近い距離にある。今はお寺の境内のお墓も整備されて綺麗になってゐるが、子供の頃はちょっと怖い感じもあった。近くに木が一本あって、その木の下に立つと、昔と今とをつなぐ懐かしさの様なものを子供心にも感じたものだった。あの木が今はないのが少し寂しい気がする。お墓に供へる花は、竹の筒に挿した。筒の下方は尖らせて地面に刺すのである。町には竹屋さんがあって、そこで竹筒を買った様な記憶がある。あの緩やかに時間が流れてゐた頃が懐かしい。

終戦の詔書

svelandski2018-08-13

月 旧暦 7 月 3 日 先負 丁丑 八白土星 Kaj V33 25387 日目

今年も8月15日が近づいた。平成といふ時代も今年が最後であると聞くし、これから先、8月といふ響きが人々の心に戦争の面影を落とすことも少なくなるのかもしれない。しかし、さういふ僕も、あの戦争の終結を説く大詔をキチンと読んだことがなかった。それではいけないと思ひ、ネットで検索して国立公文書館デジタルアーカイブからその詔書をダウンロードした。その全文はさほど長くもないのでノートに写し取って見た。漢字もなるべく昔の字体をそのまま真似て書いた。自分の生まれるわづか3年前の文書でありながら、既に古典である。自分の不勉強を棚に上げての話だが、戦後日本の国語教育がもっとしっかりしてゐたならここまで古典にはならずに済んだのではないかとの思ひもよぎった。中でも難解なのは「五内為ニ裂ク」といふ表現である。ラジオから流れた音声を聞いて、この部分をしかと即座に理解した国民は少なかったのではないかと推察する。文藝春秋は同年秋に早くも十月号を発行してゐるが、その中に吉川幸次郎博士の「心喪の説」と題されたエッセーがあり、そこにこの部分の詳細な説明がある。それも合はせて読んだ。また、元の文案では「朕ハ義命の存スルトコロ」とあったものが、閣議にかけられた時、「朕ハ時運ノ趨クトコロ」と表現を変更され、その後に「以テ萬世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス」と応ずる文言の大前提が失はれてしまったと、安岡正篤氏は後に深く嘆息した話も読んだ (2015年8月3日 産経ニュース 小堀桂一郎氏)。そこで文章の力が大きく削がれたのだと思ふ。さうであれば、その元の語句を汲む表現で読まなければならないとも思ふ。この詔書閣議にかけられ、放送されるまでに起きた数々の劇的な出来事については「日本のいちばん長い日」に詳しい。初版は昭和40年で、大宅壮一の著で世に出たが、その後明らかになった資料なども踏まえて加筆改訂され、今は半藤一利著として決定版が出てゐる。僕は Kindle 版で読んだ。何もないところから平和は生まれて来ない。数多の犠牲に改めて合掌。

自分流・認知症を予防する試み ー その3

svelandski2018-08-12

日 旧暦 7 月 2 日 友引 丙子 九紫火星 Klara V32 25386 日目

コンピューターが発達したおかげで、紙に鉛筆で字を書くことをほとんどしなくなった。今、この原稿もコンピューター上に書いてゐる。漢字などほとんど忘れたが、読み方を忘れたわけではなく書き方を忘れたのである。機械上に変換文字の候補が現れるから自分の欲しいそれを選ぶだけで良い。少し長めの意味のある文節を入力してから変換するとひとりでに正しい変換をしてくれる割合も高い。また、歴史上の人物名なども昔は漢字を探すのに大変苦労したものだが今はスイスイと変換してくれる。ますます漢字を書けなくなる。紙に手で文字を書く作業は、実は結構脳細胞を使ふに違ひないと僕は一人で思ひ込んでゐる。それで脳の老化を防ぐためにノートに漢字を書くことを思ひついた。写経でも良いのだが、できれば内容が理解できて宗教色のないものが良いと思った。それで思ひついたのが、漢詩。半世紀も前に買っただけで全然読まなかった本、「漢詩一日一首」(平凡社版 一海知義著)を本箱から出して来てノートに写してみることにした。ノートは小学生が使ふ 18 マスのこくごノートである。使ひさしのノートも残ってゐた。1ページの上半分を使ってまづ僕が漢詩を写し取り、その本とノートを同居人に回す。分量はせいぜいで1日1ページ。最大でも七言律詩を一首ほどである。同居人はノートの下半分に同じ詩を書く。僕は鉛筆を使ってなるべくキチッとした字体で書く。同居人は筆ペンを使って同じ文字を流麗に書く。昔、書道をしてゐただけあって綺麗で芸術的である。脳を鍛へるゲームの様なものは、回答を入力するたびにピコンとか音がして耳障りで仕方ないが、この漢詩を写す作業は落ちついてよろしいと、同居人は喜んでくれた。一人でやると三日坊主に陥りがちであるが、二人でやることで継続できるかもしれない。始めてもうひと月ほどになるが、結構楽しい日課になりつつある。これも認知症防止のための一つの試みである。新薬の開発・発売を座して待つよりはるかに生産的な予防法であると内心で思ってゐる。

「どこに」と「どこへ」

svelandski2018-08-11

土 旧暦 7 月 1 日 先勝 乙亥 一白水星 新月 山の日 Susanna V32 25385 日目

あまり勉強もしてないくせにスウェーデン語のことを書くのは気がひけるのだが、気付いた時に気付いたことを書き留めておきたいのでちょっと書く。英語で where は二つの用途に用ゐられる。場所と方向と (in or to what place)。”Where is my bag?” と言へば「僕のカバンはどこにある?」の意味だし、”Where do you go?” と言へば「君、どこへ行くの?」となる。その両方の使ひ方を一語で表して区別しないので僕ら日本人には心の奥に落ち着かない様な違和感が残るのだが、その様な言葉であるからその様に使ふしかない。ところがこれがスウェーデン語になると、”Var är min väska?”、”Vart går du?” の様にきっちりと区別されるのでありがたい気がする。日本語は便利で「どこ」の後に助詞を添へてその違ひを表す。”who” の場合はどうだらう。”For whom the bell tolls?” はスウェーデン語では ”Klockan klämtar för dig.” と訳されてゐる。”Till vem klockan klämtar?” とされないところに訳の力があるのかもしれない。英語から日本語に訳すると「誰がために鐘は鳴る」となり、スウェーデン語から日本語に訳すと「君がため鐘は鳴る」となる。一方は反語の様な質問であり、他方はシンプルな答である。気付いたことをちょっと書いた。