欲望の地平線

svelandski2018-08-19

日 旧暦 7 月 9 日 先負 癸未 二黒土星 Magnus Måns V33 25393 日目

「いでや、この世に生まれては、願はしかるべきことこそ多かめれ」昭和の時代には、僕の身の回りには、例へば松下幸之助を崇拝する人も多かった。何と言っても一代であれだけの事業を興したことへの驚きと尊敬があったのだと思ふ。でも、今は、GAFA創始者たちを見ても分かる様に、それを遥かに凌駕する規模とスピードで事業を伸ばした人たちがたくさん居る。その一方で、昔のやり方で会社を支へて来た日本の人たちは不祥事を起こしたり、会社が売られたり、どことなく自信を無くしてゐる様に見える。それで、若い人の中は、自分もまた外国のリーダーたちの様に大金持ちになれるチャンスがあるのではないかと、新しい方面に向かって走る人が出て来ても不思議はない。だが、何か危なっかしい気もする。人間が失敗するのは欲に目が眩む時である。無難な道を行かうとすれば、欲を抑へなければならないし、欲を抑へ過ぎれば自分のやるべきことが分からなくなる。どの辺の欲望で自分の人生をバランスさせるべきかはかなり難しい問題であると思ふ。年をとれば欲望は小さくなって行くかといふとさうでもない。健康でなるべく長生きしたい欲望は年々歳々強まる様な気さへする。一つだけ思ふことは、周囲の状況から自分のバランス点を推測してはいけないことである。「あいつがあそこまでやって許されるなら、俺はここまでやって良いな」みたいな考へ方をすると間違へるのだ。人は法の下には平等だが、生まれながらに不平等である。自分に許される欲望の地平線は人それぞれにその人だけの固有の広がりを持つ。自分の欲望の地平線はどこにあるのか、今のままで良いのか、僕は今でも分からない。毎日自分に問ひかけなければ答へは出ないと思ふ。